三字の直接用例から選ぶ
都市篇第十九号は、モロッコ南西部の大西洋岸にあるアガディールです。
台湾の行政院主計総処が公開する歴史法規には、モロッコの都市Agadirを指す三字の亞加狄があります。日本で通常用いる字体へ直すと亜加狄です。
一方、現代中国大陸の公的資料は阿加迪尔、香港教育局の用語集は繁体字の阿加迪爾を使います。三字形と四字形は、ともに資料に直接現れる、字数と用字の異なる音写です。
四字形から末尾を都合よく削るのではありません。最初から三字でAgadirに対応する用例があるため、都市篇の暫定制定都市名には亜加狄を選びます。
日本語では「アガディール」
日本国外務省のODA紹介は、モロッコの大西洋に面する港町をアガディールと記しています。現在の都市名欄は、この公的な日本語表記に合わせます。
日本語の古い資料には、異なるカタカナ形もあります。大阪毎日新聞社が1940年に刊行した『ニッポン世界一周記念帳』の目次には、飛行経由地としてアガヂルが載っています。
これは日本語における都市名の受容史を示す用例ですが、漢字表記ではありません。今回確認できた資料の範囲では、アガディールを指す日本語史料上の漢字形は未確認です。
モロッコの首都はラバトです。アガディールはスース=マサ地方の中心都市ですが、国の首都ではありません。
台湾政府資料にある「亞加狄」
台湾の行政院主計総処が公開する「中央政府各機關派赴國外各地區出差人員生活費日支數額表」の歴史法規には、国名摩洛哥(Morocco)の下に、都市名亞加狄(Agadir)が掲げられています。
漢字形、欧文名、所属国が同じ表の中で対応しているため、別の地名や人名ではなく、本稿のアガディールを指す直接用例と判断できます。
原文の亞は日本の新字体では亜です。加と狄はそのまま使えるため、日本字体では亜加狄となります。
ただし、この表は現在の表記基準ではなく、主計総処が保存する歴史法規です。亞加狄が現在も台湾の標準地名であるとは断定しません。確実にいえるのは、台湾政府の公的文書でAgadirに三字形が直接使われたことです。
現代資料の四字形「阿加迪尔」
現代中国大陸の資料では、四字の阿加迪尔が使われています。
新華社は2024年、都市に関する国際賞の記事で摩洛哥阿加迪尔と記しました。中国外交部も2025年、モロッコ駐在大使の活動記事で阿加迪尔市と記しています。
香港教育局の『中學歷史科常用英漢辭彙』は、欧文Agadirに繁体字の阿加迪爾を対応させています。1937年刊行の中国語『外交大辭典』にも、1911年の国際危機を扱う項目で阿加迪爾條約などの表記があります。
簡体字と繁体字の違いを除けば、これらは四字の同系統です。複数の公的資料で確認できる形ですが、都市篇では二字・三字を主流とする方針と、三字形に独立した直接用例があることを踏まえ、採用欄には亜加狄を置きます。
三字形を選ぶことは、四字形を誤りとする判断ではありません。三字と四字の両方を、使用時期と資料の性格を分けて記録します。
「創」が意味するもの
亞加狄という文字列そのものは、万国漢字志の造語ではありません。台湾政府の歴史法規に先行用例があります。
それでも制定区分を創とするのは、日本語史料に定着した既存形を継承するのではなく、中国語圏の三字形を日本字体へ正規化し、現代日本語の都市索引へ暫定的に取り込むためです。
つまり本稿の創は、「世界で初めて三字を作った」という意味ではありません。既存の異言語資料を根拠に、日本語側で新たに採用する区分です。
阿加迪や亜加のような短縮形には、Agadirと直接対応する資料を確認できませんでした。文字数を合わせるためだけの切り出しは行いません。
Agadirは城塞と穀倉の語
アガディール市の公式サイトは、Agadirをアマジグ語の名称と説明しています。意味は「難攻不落の城塞」で、財産を収める倉や穀倉を指すこともあります。
同サイトによれば、15世紀末以降、この都市にはAgadir Igher、Agadir L'arba、Founty、Tegmi Ogadir、Porto Miskinumなど、およそ二十の呼称がありました。その大部分は時代とともに使われなくなりました。
ここから確認できるのは、Agadirが個人名ではなく、城塞や共同穀倉に関わる語であることです。今回の資料では、この名称を最初に都市へ与えた人物は特定できませんでした。
漢字形亞加狄の各字を選んだ人物も確認できません。都市の建設者、統治者、復興を主導した人物を、名称や漢字表記の命名者として登録することはしません。
1911年の危機と1960年の地震
アガディール市公式サイトは、1911年にドイツ軍艦パンターが入港したことから、フランスとドイツの間でアガディール危機が起きたと説明します。翌1912年、モロッコはフランス保護領となりました。
都市の形を大きく変えたのは、1960年2月29日の地震です。市公式史によれば、地震はアガディールの大部分を破壊し、人口は被災前の約4万5,000人から約1万6,000人へ減少しました。
国王ムハンマド5世は再建を宣言し、新しい市街は旧市街の南側に建設されました。現在の広い街路と近代的な建築は、この再建過程と結びついています。
ムハンマド5世は震災後の再建を宣言した人物として重要です。しかし、Agadirという都市名や亞加狄という漢字形の命名者ではありません。役割を混同せず、本文の歴史として記録します。
人口と位置
モロッコ高等計画委員会が公表した2024年国勢調査の法定人口表では、Commune d'Agadirの人口は50万4,768人です。
内訳はモロッコ人50万869人、外国人3,899人で、世帯数は14万3,553世帯です。同じ表のアガディール=イダ・ウ・タナン県全体は72万1,431人であり、都市一覧には県人口ではなく自治体人口を採ります。
法定人口の基準日は2024年9月1日です。
一方、高等計画委員会スース=マサ地域局が公開する別の自治体指標票には、アガディールの人口として50万1,797人が記されています。二つの公式資料に2,971人の差があります。本稿では、人口区分、内訳、世帯数が一つの全国法定人口表で明示された50万4,768人を優先しました。
この差を解消できる注記や改訂履歴は確認できていません。数値を混ぜず、異なる公表値があることを未解決点として残します。
GeoNamesのAgadir(ID 2561668)が示す都市地点は、北緯30.42018度、西経9.59815度です。県全体の中心や空港ではなく、この都市地点を公式サイトの地図表示に使います。
四つの表記を分ける
亜加狄
台湾政府の歴史法規にある亞加狄を、日本字体へ正規化した三字形です。
Agadirとの直接対応があるため、暫定制定都市名に採ります。ただし、現在も台湾で標準的に使われる形とは断定しません。
阿加迪尔
新華社と中国外交部が現代の都市へ使う中国大陸の簡体字形です。
四字形の現在用例として記録します。
阿加迪爾
香港教育局の用語集と近代中国語資料にある繁体字形です。
阿加迪尔と同系統ですが、資料の字体を保って併記します。
アガヂル
1940年の日本語資料にある歴史的なカタカナ形です。
日本語での旧表記として重要ですが、漢字形ではないため、歴史的漢字表記には含めません。
日本語の歴史的漢字表記は未確認
今回確認した国立国会図書館サーチ、昭和館デジタルアーカイブなどの限定的な日本語資料では、アガディールを指す漢字表記を確認できませんでした。
中国語資料に亞加狄や阿加迪爾があることは、日本語史料でも同じ漢字が使われた証明にはなりません。そのため、日本語の歴史的漢字表記は未確認とします。
未確認は不存在の証明ではありません。明治・大正・昭和前期の外交史、世界地誌、海図、新聞画像には継続調査の余地があります。
万国漢字志への取り込み
暫定制定都市名には、三字の亜加狄を採ります。
根拠は、台湾政府の歴史法規に亞加狄(Agadir)という直接用例があり、所属国もモロッコと明示されていることです。四字形から機械的に切り出した表記ではありません。
原文の亞だけを日本字体の亜へ正規化します。中国語圏の既存形を日本語側へ暫定導入するため、制定区分は創です。
現在の中国大陸と香港の公的資料が使う四字形阿加迪尔/阿加迪爾も、異表記として残します。三字形の現在の標準性、日本語漢字形の有無、漢字を選んだ人物が判明した場合は再検討します。
万国漢字志の暫定案
現代日本語都市名
アガディール
所属国
モロッコ
台湾政府の歴史法規で確認した三字形
亞加狄
現代中国大陸の公的資料で確認した四字形
阿加迪尔
香港の公的資料で確認した繁体字形
阿加迪爾
暫定制定都市名
亜加狄――創
制定状態
暫定制定・日本語原典継続調査
採らなかった表記と未解決点
現代の四字形阿加迪尔/阿加迪爾には複数の公的用例がありますが、今回は独立した三字用例があるため、暫定制定欄には採りません。
未解決点は、亞加狄が使われ始めた時期と現在の標準性、日本語史料における漢字表記、Agadirという都市名を最初に付けた人物、亞加狄の漢字を選んだ人物です。
市の成立年代には資料ごとの差もあります。本稿では一つの年へ固定せず、資料間で共通して確認できる1911年の危機と1960年以後の再建を記録しました。
2024年人口についても、全国法定人口表の50万4,768人と、地域局の自治体指標票の50万1,797人が一致しません。公式サイトには法定人口表を採用し、差は継続確認とします。
参考資料
- 外務省「日本国民の皆様へ ありがとう! モロッコ王国」
- 行政院主計総処「中央政府各機關派赴國外各地區出差人員生活費日支數額表」歴史法規
- 新華社「上海奖花落五城,首次海外颁发国际认可度提升」
- 中国外交部「驻摩洛哥大使余劲松拜会阿加迪尔省议会第一副主席艾泽鲁尔」
- 香港教育局『中學歷史科常用英漢辭彙』
- 『外交大辭典』1937年
- アガディール市「The Name」
- アガディール市「History」
- 昭和館デジタルアーカイブ『ニッポン世界一周記念帳』
- モロッコ高等計画委員会『Population légale du Royaume du Maroc selon les résultats du RGPH 2024』
- モロッコ高等計画委員会スース=マサ地域局「Caractéristiques de la population RGPH 2024 : Préfecture Agadir Ida Outanane」
- モロッコ高等計画委員会スース=マサ地域局「Agadir」自治体指標票
- GeoNames「Agadir」
- 外務省「モロッコ王国基礎データ」
- 国立国会図書館サーチ
編纂綱領と公式サイト
本稿は万国漢字志 編纂綱領に基づいて調査・選定しています。
都市一覧は万国漢字志 公式サイトで公開します。
次回予告|都市篇 第二十号
次は、タルーダントです。
大西洋岸からスース平原の内陸へ移り、城壁都市タルーダントの二字・三字形、名称史、史料上の表記を調べます。
