DjiromaitとDjeromait
都市篇第六十号は、セネガル南部の集落、ジロマイトです。
セネガル国家統計・人口経済分析庁(ANSD)の2023年国勢調査は、集落名をDJIROMAITと記します。国土整備庁(ANAT)の公式地図では、トレマを付けたDjiromaïtです。
一方、歴史学者ロバート・M・バウムは十九世紀の村をDjeromaitと記しています。1896年の人口資料には、アクセント記号を伴うDjéromaïtも現れます。
綴りと位置、バウムが現地で行った聞き取りを考えると、これらが現在のDjiromaitへ続く可能性は高いと考えられます。ただし、DjeromaitからDjiromaitへの変更を明示した行政上の対照表は、今回の調査では確認できていません。
本稿では同じ村の歴史をたどる有力な記録として扱いながら、綴りの連続だけで完全な同一性が証明されたとはしません。
日本語名は本誌の表記
国立国会図書館サーチを、Djiromait、Djeromait、ジロマイトなどで調べました。しかし、このセネガルの集落を直接指す日本語の漢字表記は確認できませんでした。
本稿のジロマイトは、前号の予告とDjiromaitの綴りに沿って本誌が置くカタカナ表記です。日本語で広く定着した標準名を採録したという意味ではありません。
現地語による発音を確認できる音声資料も未確認です。Djiromaïtのトレマ、Djeromaitのe、末尾のtを日本語でどう写すかには検討の余地があります。
日本語の歴史的漢字表記は原典を示せないため、歴史表記欄は空欄のままとします。未確認は不存在の証明ではなく、今後も原典調査を続けるという記録です。
公式地図では「孤立集落」
ANATの縮尺20万分の1地図は、DjiromaïtをHabitat isoléに分類しています。直訳すれば「孤立した居住地」です。
これは地図上の地物分類であり、住民が社会的に孤立しているという評価ではありません。後に見るように、村は交易、近隣集落との関係、道路整備の中に置かれてきました。
公式KMLの代表点は北緯12.55284282320984度、西経16.53382535280842度です。都市一覧には小数第六位へ丸めた北緯12.552843度、西経16.533825度を採ります。
この点は集落を地図上に示す代表位置であり、村域の境界、役場、学校、歴史上の交易所の位置を精密に示すものではありません。KMLは学校の存在も記録していますが、2017年作成データのため、現在の施設状況を保証する情報としては使いません。
ジロマイトはセネガルの首都ではありません。国の首都はダカールです。
2023年人口は195人
ANSDの2023年国勢調査で、DJIROMAITの人口は195人です。内訳は男性104人、女性91人、36世帯、34コンセッションと記録されています。
行政区分は、ジガンショール州、ウスイ県、ルディア・ウォロフ郡、ムロンプ・コミューンです。195人は、この行政階層の中にある一集落の値であり、ムロンプ・コミューン全体や周辺の保全区域の人口ではありません。
1896年資料には、Djéromaït Diolla 240人とDjéromaït portugais 100人が別々に載ります。しかし、これは植民地期の初期人口調査で、資料自体が概数や欠落を含みうることを説明しています。二つの区分が現在の集落範囲とどう対応するかも未確認です。
したがって、1896年の二値を足して2023年の195人と比較し、人口が増減したとは判断しません。異なる時代にDjéromaïtという名が人口資料へ現れる事実だけを残します。
フランス側の主導で築かれた交易者の村
バウムの『Shrines of the Slave Trade』は、Djeromaitを十九世紀に外来者が築いたstranger villageの一つとして扱います。
村づくりはカラバネのフランス側の主導で始まり、実際に村を築いたのは、イスラーム教徒のセレール、ウォロフ、マンディンカの交易者でした。注では、創設に関わった家族をDjiba家とDiouf家としています。
ここで「フランス側の主導」と「村を築いた人びと」は分ける必要があります。今回確認した記録は、特定のフランス人一人を創設者や地名の命名者としていません。交易者集団の構成も、現在の全住民の民族や宗教を示す資料ではありません。
隣接するカジノルは、Djeromaitの位置が水田で働く人びとへの襲撃路に当たることから、交易者の定住を認めました。武装した交易者が襲撃者を遠ざけ、同盟相手になることを期待したとバウムは記します。
一方、村に農地が譲渡されたわけではありませんでした。交易者は、カジノルの友人から限られた水田を借りたとされています。土地を「与えた」と「貸した」を同じにせず、記録の区別を保ちます。
初代首長Mangoy Djiba
バウムは、Djeromaitの初代首長をMangoy Djibaと記します。裕福な交易者であり、イスラームの宗教指導者マラブーでもありました。
Mangoy Djibaは、コーランの語を納めた護符を作ったと伝えられています。刃物や銃弾から身を守る力があるという語りも記録されていますが、その効力を歴史的事実として確認できるわけではありません。
彼が初代首長であること、Djiba家が創設家族に含まれることは確認できます。しかし、Mangoy DjibaがDjeromaitという地名を作ったとは資料にありません。都市名の命名者は未確定とします。
村の正確な創設年も確定できません。バウムは1850年代に形成された村々の一つとして位置づけ、1857年にはティオンク・エシルからDjeromaitが襲撃された記録を注に挙げています。少なくとも1857年には村が存在していたと読めますが、それを創設年には置き換えません。
交易所の拡張とカジノルの警戒
フランス側とカジノルの関係は、村の設置を認めた時点で固定されたわけではありません。
バウムによれば、カジノルは当初、襲撃者への防御と交易を期待してフランス側を受け入れました。しかし、フランス官吏が新しい作物の導入を求め、Djeromaitの交易拠点を拡張し、牛の売却を迫ると、警戒が強まりました。
Djeromaitは交易の接点であると同時に、植民地側の要求が地域へ及ぶ接点にもなりました。村の創建を、外から来た交易者と近隣住民が一方的に友好を深めた物語にはしません。
1870年代には、マンジャク、パペル、南方のエディアマト・ジョラから来た第二の集団が定住したと記録されています。彼らはそれぞれの祭祀を持ち込み、イスラーム、キリスト教的要素、ジョラの宗教実践が交わる場になりました。
これらはバウムが歴史資料と現地聞き取りから再構成した十九世紀の記録です。現在の住民構成や信仰をそのまま表すものではありません。
道路と共同体保全の結節点
現代の公的事業にもDjiromaïtの名が現れます。アフリカ開発銀行の道路維持事業報告は、Mlomp-Djiromaït道路の改修を、セネガル国が全額負担した事業として記録しています。
ムロンプ・コミューンの土地管理を扱う大学研究では、Djiromait、Baguigui、Petite-Pointe、Pointe Saint-Georgesを一つの地区として整理しています。前に取り上げたポワント・サン=ジョルジュとも、行政・生活圏のつながりがあります。
同地域の共同体保全区域を扱う報告には、Djiromaitも設置過程に関わる村として現れます。ただし、保全区域の範囲や参加村は調整を重ねており、一つの年の一覧だけで現在の法的範囲を断定しません。
道路、集落地区、保全区域という三つの資料は対象範囲が異なります。いずれも、ANATの「Habitat isolé」を、外部との関係がない村という意味に読み替えないための手掛かりです。
中国語の直接用例は未確認
中国語圏の政府機関、主要報道、地名資料を、Djiromait、Djiromaït、Djeromaitとセネガル、カザマンスを組み合わせて調べました。しかし、この集落を直接指す信頼できる漢字表記は確認できませんでした。
原綴りからは、吉罗迈特、吉羅邁特などの字面を組むことができます。しかし、検索用に作れる文字列と、対象地に実際に使われた地名は別です。
以下の候補はすべて万国漢字志が比較のために組んだ案であり、日本語の歴史表記でも、中国語圏の既成地名でもありません。
二字・三字案を比較する
慈呂邁
三文字です。慈をジ、呂をロ、邁をマイに対応させます。ジロマイまでを三字で順に残せます。
一方、末尾のトを省きます。慈しむ、音律、進むといった字義は、村の語源、住民像、交易や道路の歴史を表すものではありません。字義を歴史へ結びつけず、音を圧縮した本誌独自の索引形として扱います。
慈邁
二文字です。ジとマイを残せますが、中間のロを失います。二字に短縮できても、原名との対応が弱くなるため採りません。
治路邁
三文字で、ジ・ロ・マイの音を写せます。しかし、治と路が統治や道路整備を強く連想させます。植民地支配と現代の道路事業を、地名の由来であるかのように見せるおそれがあるため採りません。
慈呂邁都
四文字で末尾のトまで示す比較案です。しかし、二字・三字を主流とする索引方針から外れます。さらに都は、ANATがHabitat isoléに分類する小集落を大都市や首都のように見せかねません。
今回は、三字で音の大部分を順に残す慈呂邁を採ります。完全音写ではなく、末尾音を省いた暫定案です。
万国漢字志への取り込み
暫定制定都市名には、三字の慈呂邁を採ります。制定区分は創です。
既存の日本語漢字名を復元したものでも、中国語の直接用例を取り込んだものでもありません。本稿のカタカナ名ジロマイトを、万国漢字志が三字へ圧縮した提案です。
創設に関わった家族、初代首長、十九世紀の綴りが分かっても、地名の語源と命名者が分かるわけではありません。慈呂邁の字義で、その空白を埋めません。
今後、現地語発音、日本語原典、中国語の地名直接用例、DjeromaitとDjiromaitを結ぶ行政記録が確認できた場合には、カタカナ名、制定形、区分を再検討します。
万国漢字志の暫定案
本稿で用いる都市名
ジロマイト
所属国
セネガル
現代・歴史資料で確認した綴り
Djiromait/Djiromaït/Djeromait/Djéromaït
歴史的な日本語漢字表記
未確認
信頼できる中国語の地名直接用例
未確認
創設者
Djiba家とDiouf家を含む、セレール、ウォロフ、マンディンカのイスラーム教徒交易者集団(フランス側の主導。個々の創設者名と正確な創設年は未確定)
初代首長
Mangoy Djiba
地名の語源・命名者
未確定
暫定制定都市名
慈呂邁――創
制定状態
暫定制定・現地語発音、日本語原典、中国語の地名直接用例、語源、命名記録、綴りの行政対照を継続調査
採らなかった表記と未解決点
慈邁は二字に収まりますがロを落とします。治路邁は音を保つ一方、統治と道路という字義が歴史的事実へ寄りすぎます。慈呂邁都は末尾音を補えますが四字になり、都が集落規模を誤解させます。
採用した慈呂邁も完全音写ではありません。末尾のトを落とし、説明なしにはジロマイトと読み切れない弱点があります。
未解決点は、Djeromaitと現行Djiromaitを明示的に結ぶ行政対照、現地語での発音、地名の語源と命名者、正確な創設年、創設者集団の個人名、日本語と中国語の直接漢字用例です。
1896年資料の二つのDjéromaïtと、2023年のDJIROMAITでは、調査方法と集計範囲が異なります。人口推移には用いません。Mangoy Djibaは初代首長ですが、地名の命名者とは確認できていません。
参考資料
- セネガル国家統計・人口経済分析庁「RGPH-5 2023 DJIROMAIT」
- セネガル国土整備庁「Ziguinchor ND-28-II」KML
- Robert M. Baum『Shrines of the Slave Trade: Diola Religion and Society in Precolonial Senegambia』、Oxford University Press、1999年、146〜151頁および注81〜85。
- Robert M. Baum『Shrines of the Slave Trade』公開OCR
- C. Beckerほか『Les premiers recensements au Sénégal et l'évolution démographique』、ORSTOM、1983年。1896年Casamance調査を再録。
- アフリカ開発銀行「Senegal - Road Maintenance Project - Project Completion Report」
- Stevie Arnaud Frédéric Manga『Les mutations de la gestion foncière dans la commune de Mlomp』
- RAMPAO『Itinéraires de création d'aires marines protégées en Afrique de l'Ouest』
- 国立国会図書館サーチ「ジロマイト」
- 国立国会図書館サーチ「Djiromait」
- 台湾政府資料開放平臺「國家教育研究院―外國地名譯名」
- 外務省「セネガル共和国基礎データ」
編纂綱領と公式サイト
本稿は万国漢字志 編纂綱領に基づいて調査・選定しています。
都市一覧は万国漢字志 公式サイトで公開します。
次回予告|都市篇 第六十一号
次は、ティオンク・エシルです。
1857年にDjeromaitとポワント・サン=ジョルジュを襲ったと記録される集落を、現在のTHIONCK ESSYLとの連続性を決めつけずにたどります。
