都市と港で、先頭の字が違う
都市篇第十三号は、モロッコ北西部のケニトラです。
中国大陸の外交資料は、都市を盖尼特拉と記します。一方、台湾の公的な外国地名データには、ケニトラ港を指す項目として肯尼特拉が載っています。
どちらも四字で、違うのは先頭の一字です。しかし、一方は市長や工業地帯を含む都市の用例、もう一方は港を見出しにした用例です。文字数や字面だけを見て同格の都市名候補とは扱えません。
今回は対象範囲を確認し、都市の直接用例を主表記に採ります。また、二字・三字を主流とする都市篇であっても、確認できない短縮形は作りません。
日本語では「ケニトラ」
日本国外務省の円借款案件概要書は、事業地をケニトラ県ケニトラ市近郊、案件名をケニトラ大西洋新港建設計画としています。本文では、ケニトラ市と後背地域の発展、輸出フリーゾーン、自動車部品産業も説明しています。
在モロッコ日本国大使館は運転免許証の切替手続を案内するページで、手続可能な都市の一つにケニトラを挙げています。日本貿易振興機構も自動車産業の記事で、工場所在地をケニトラと記します。
日本の外交機関、在外公館、貿易振興機関に同じカタカナ表記があるため、本稿の現代日本語都市名はケニトラとします。
日本国外務省が示すモロッコの首都はラバトです。したがって、ケニトラは現在の国都ではありません。
中国外交部の都市名は「盖尼特拉」
在モロッコ中国大使館の記事は、2022年の工場着工式について、盖尼特拉市長が出席したと記します。同じ記事は工場の所在地を盖尼特拉大西洋保税区としています。
市長と工業地帯を一つの記事で確認できるため、ここでの盖尼特拉はモロッコの都市ケニトラを直接指す用例です。別の同名地や、人名だけを漢字にしたものではありません。
原文の盖は中国大陸の簡体字です。日本で通常用いる字体に直すと蓋となるため、万国漢字志への取り込みでは蓋尼特拉とします。字体を直したことと、史料の原文が「盖尼特拉」であることは分けて記録します。
ただし、この四字は現代中国語の公的用例です。日本語で歴史的に使われた漢字都市名だったことを、そのまま意味するものではありません。
台湾の「肯尼特拉」は港の項目
台湾の国立教育研究院が公開する『外国地名訳名』オープンデータには、欧文見出しKenitra (Mina Hassan Tani)、漢字表記肯尼特拉(哈三塔尼港)、所在国モロッコ、北緯34度16分・西経6度35分が一行に収録されています。
この資料は肯尼特拉という四字の公的な使用を確認するうえで重要です。しかし、見出しには港を意味するMinaと港名Hassan Taniが付き、漢字欄にも「港」が明記されています。自治体としてのケニトラだけを独立見出しにした行ではありません。
そのため、肯尼特拉を誤りとはしませんが、都市名を直接示した盖尼特拉と同じ根拠の候補には置きません。本稿では港の表記として保存します。
日本語の歴史的漢字表記は未確認
今回行った国立国会図書館サーチ、アジア歴史資料センター、NDL Ngram Viewerでの限定的な検索では、モロッコのケニトラを指す日本語の歴史的漢字表記を確認できませんでした。
蓋尼特拉、盖尼特拉、肯尼特拉を日本語検索すると、現代中国語の記事や機械翻訳されたページも混じります。日本語の原典で都市名として使用されたと確かめられない一致は、日本語史料上の用例には数えません。
未確認は不存在の証明ではありません。後述する旧称Port-Lyautey、フランス語形Kénitra、アラビア語形、旧字体、画像化された地図などには継続調査の余地があります。日本語の歴史的漢字表記は未確認とし、原典調査を続けます。
Port-Lyauteyと現在のケニトラ
フランス保護領期のモロッコ官報には、1955年の地名としてPort-Lyauteyが現れます。一方、独立後の1965年の官報は、港と荷役会社をMehdia-Kénitra、Société Kénitréenneと記しています。
これらの官報から、保護領末期のPort-Lyauteyと、独立後のKénitraという公的用例を確認できます。ただし、今回確認した官報だけでは、改称の法令、正確な施行日、改称を決めた人物までは確定できません。
ケニトラ市の公式案内は、都市化以前の一帯がハララと呼ばれ、1912年にフランス保護領の初代総督ユベール・リヨテがセブー川沿いのカスバ近くに港を建設することを決めたと説明しています。港は1913年に商業航行へ開かれました。
リヨテは港の建設と旧称Port-Lyauteyに結び付く人物です。しかし、現在名Kénitraを造語した人物でも、漢字形盖尼特拉を作った人物でもあると示す資料は確認できません。都市建設に関わる人物や旧称の由来を、現在名または漢字表記の命名者へ読み替えないため、本人を現在名または漢字表記の命名者とは認定しません。
セブー川の港から工業都市へ
ケニトラ市の公式案内は、市街をセブー川南岸、河口から約12キロに位置づけています。モロッコ内務省系の地域モノグラフは、メディア=ケニトラ港をモロッコで唯一の河川港と説明しています。
日本国外務省の案件概要書は、ケニトラをタンジェとカサブランカの中間に位置する都市とし、近郊の大規模な輸出フリーゾーンと自動車部品産業を紹介しています。モロッコ産業・商業省も、ケニトラの工業区域に立地する自動車関連工場を継続的に扱っています。
現在のケニトラは、保護領期に整備された河港だけで説明できる都市ではありません。セブー川の物流拠点と、自動車産業を中心とする現代の工業都市という二つの面を持ちます。
人口と位置
モロッコ高等計画委員会の2024年国勢調査は、2024年9月1日現在のCommune de Kénitraの法定人口を50万7,736人、世帯数を13万8,708世帯としています。内訳はモロッコ人50万5,075人、外国人2,661人です。
同じ表にはケニトラ県全体の人口128万4,247人もありますが、都市一覧に県人口を置くと範囲が大きく変わります。公式サイトには、自治体に当たるコミューン人口50万7,736人を採ります。
GeoNamesのKenitra(ID 2544571)が示す都市座標は、北緯34.261008度、西経6.580203度です。台湾の地名データにある港の度分表記とは対象範囲と精度が異なるため、地図表示には都市点の座標を使います。
四字形と、確認できない短縮形
蓋尼特拉
中国大陸の原文盖尼特拉を日本で用いる字体に直した四字形です。中国外交部系の記事で、市長と工業地帯に直接使われています。都市を主対象とする本稿では、最も範囲が明確な候補です。
肯尼特拉
台湾の公的な地名データにある四字形です。ただし、確認できた行はKenitra港を対象とし、「哈三塔尼港」を伴います。都市全体の主表記には採らず、港の表記として記録します。
二字・三字へ縮めない
前号は、次号で二字・三字形の有無を調べると予告しました。しかし、今回確認した公的資料はいずれも四字で、ケニトラを示す二字形または三字形の直接用例は確認できませんでした。
都市篇は二字・三字を主流としますが、それは史料にある四字から任意の一字または二字を削る理由にはなりません。音だけから新しい短縮形を作らず、根拠のある四字を残します。
万国漢字志への取り込み
暫定制定都市名には、四字の蓋尼特拉を採ります。
根拠は、中国外交部系の公的記事が、都市の市長と工業地帯を盖尼特拉と直接記していることです。原資料の簡体字盖は、採用欄で日本の字体蓋に直します。
一方、蓋尼特拉を日本語の歴史的都市名として用いた原典は未確認です。中国語圏の既存表記を現代日本語の都市索引へ新たに取り込むため、制定区分は創とします。この創は、四字の文字列そのものを本稿が新造したという意味ではありません。
採用状態は暫定です。日本語原典の用例、二字・三字の直接用例、または漢字表記の選定過程を示す一次資料が見つかった場合は、制定区分と採用形を再検討します。
万国漢字志の暫定案
現代日本語都市名
ケニトラ
所属国
モロッコ
中国外交部で確認した都市表記
盖尼特拉
台湾の公的地名データで確認した港の表記
肯尼特拉(哈三塔尼港)
暫定制定都市名
蓋尼特拉――創
制定状態
暫定制定・日本語原典継続調査
採らなかった表記と未解決点
肯尼特拉は台湾の公的データにある表記ですが、今回確認できた項目は港を対象とするため、都市の主表記には採りません。
二字・三字の短縮形は、都市名としての直接用例を確認できませんでした。四字からどの字を残すかを決める史料上の根拠もないため、具体的な短縮案を新造しません。
未解決点は、日本語資料における歴史的漢字表記、Port-LyauteyからKénitraへの正確な改称時期と法的根拠、現在名Kénitraの語源、盖尼特拉と肯尼特拉の初出および命名者です。港の建設者、旧称に名を残す人物、漢字表記の命名者は、それぞれ別の問題として調査を続けます。
参考資料
- 外務省「ケニトラ大西洋新港建設計画 案件概要書」
- 在モロッコ日本国大使館「モロッコの運転免許証への切替手続」
- 日本貿易振興機構「ジェトロ、モロッコで自動車産業ミッション実施」
- 在モロッコ中国大使館「李昌林大使、中信戴卡モロッコ鋳造工場の着工式に出席」
- 台湾・国立教育研究院「外国地名訳名」オープンデータ
- ケニトラ市「歴史」
- ケニトラ市「地理」
- モロッコ内務省「ラバト=サレ=ケニトラ地方モノグラフ」
- モロッコ官報第2240号(1955年9月30日)
- モロッコ官報第2774号(1965年12月29日)
- モロッコ産業・商業省「Stellantisとモロッコ政府、ケニトラで産業提携を強化」
- モロッコ高等計画委員会「2024年国勢調査・市町村別人口(Excel)」
- GeoNames「Kenitra」
- 外務省「モロッコ王国基礎データ」
- 国立国会図書館サーチ
- アジア歴史資料センター
- NDL Ngram Viewer
編纂綱領と公式サイト
本稿は万国漢字志 編纂綱領に基づいて調査・選定しています。
都市一覧は万国漢字志 公式サイトで公開します。
次回予告|都市篇 第十四号
次は、サレです。
首都ラバトと川を挟んで向かい合う都市について、日本語・中国語圏の表記と、河口都市としての歴史を確認します。
