同じ三字でも、真ん中が違う
都市篇第十二号は、モロッコ北西部の大西洋岸にあるララシュです。
前号のアシラから海岸を南へ進むと、ルーコス川の河口にこの港町があります。対岸には古代都市リクスの遺跡があり、ララシュを紹介する資料にもたびたび登場します。しかし、リクスと現在のララシュは同じ名でも同じ都市でもありません。
漢字表記にも、似ているようで同じではない二つの三字形があります。台湾の公的な地名データにある拉哈什と、中国大陸の外交当局が使う拉腊什です。
どちらも既存資料にある表記です。本稿では、発行主体と対象都市を確認し、日本語の歴史的漢字表記と混同しない形で、万国漢字志の暫定制定都市名を選びます。
日本語では「ララシュ」
在モロッコ日本国大使館は、日本の参議院議員が水産協力の現場を訪れた記録で、ララシュの漁業技術向上センターと記しています。同大使館の無償資金協力一覧にも、ララシュ水産専門技術学院の用例があります。
国際協力機構の案件概要も、水産資源管理能力強化プロジェクトの活動拠点としてITPMララシュを掲げています。旅行記事の表記だけではなく、日本の外交・国際協力機関が現地施設を特定する名称としてララシュを使用していることが分かります。
一方、日本建築学会計画系論文集には、2008年の論文題名としてララチェも現れます。Laracheの城壁計画を扱う論文で、対象都市は同じです。本稿では公的機関の複数資料にあるララシュを見出し名とし、ララチェは現代日本語の異表記として記録します。
本稿はこれらの公的用例と前号の予告に合わせ、現代日本語都市名をララシュとします。
日本国外務省が示すモロッコの首都はラバトです。したがって、ララシュは現在の国都ではありません。
台湾の地名データは「拉哈什」
台湾の国立教育研究院が公開する『外国地名訳名』のオープンデータは、欧文見出しLaracheに対して拉哈什を掲げています。同じ行には所在国モロッコと、北緯35度12分・西経6度09分の座標も収録されています。
このため、拉哈什が人名や別の同名地ではなく、モロッコのララシュを指すことを一行の中で照合できます。
三字はいずれも音を写すために置かれた字です。都市名の意味を「引く」「笑う」「何」と解くものではありません。字義から町の性格を説明せず、地名資料に記録された一まとまりの音写として扱います。
中国大陸の外交用例は「拉腊什」
中華人民共和国外交部は2024年、駐モロッコ大使が現地の大学を訪問した記事で、拉腊什多科応用学院、拉腊什市政委員会と記しました。大学と市政委員会が同じ記事に現れるため、対象がこの都市であることは明確です。
中国大陸の簡体字腊を繁体字に直せば臘となり、繁体字圏の一般資料では拉臘什も見られます。ただし、今回確認した外交部の原文はあくまで簡体字の拉腊什です。本稿は原資料の文字列を勝手に置き換えず、原文を拉腊什、字体を変換した形を拉臘什として区別します。
台湾の拉哈什と中国大陸の拉腊什は、先頭と末尾が共通し、中央だけが異なる三字形です。これは単なる字体差ではありません。哈と腊は別の字であり、異なる資料系統の音写です。
日本語の歴史的漢字表記は未確認
今回行った国立国会図書館サーチ、アジア歴史資料センター、NDL Ngram Viewerでの限定的な検索では、モロッコのララシュを指す日本語の歴史的漢字表記を確認できませんでした。
拉哈什、拉腊什、拉臘什を日本語検索すると、現代中国語の記事や機械翻訳されたページも含まれます。日本語の文献でこの都市を漢字表記したと確認できない一致は、日本語史料上の用例には数えません。
未確認は不存在の証明ではありません。Laracheのほか、アラビア語名に近いAl Araish、旧字体、画像化された地図など、検索で拾いにくい形は残ります。日本語の歴史的漢字表記は未確認とし、原典調査を続けます。
ララシュと古代都市リクスを分ける
ユネスコ世界遺産センターの暫定一覧は、古代都市リクスをルーコス川河口にあり、現代のララシュの向かい側に位置すると説明しています。遺跡では紀元前8世紀から14世紀までの居住層が確認され、フェニキア、カルタゴ、マウレタニア、ローマ、イスラーム期にわたる痕跡が残ります。
モロッコ文化省も、リクス遺跡をララシュから約5キロ、ルーコス川右岸の丘に位置づけています。同省の説明では、リクスの居住は中世まで続き、その後に継承者としてララシュが成立しました。
モロッコ政府観光局はララシュの近郊にリクスを紹介し、塩蔵・漁業の工房、浴場、神殿、劇場・円形闘技場などの遺構を挙げています。現在の港町と古代遺跡は歴史的・地理的に深く結びつきますが、地名をそのまま同一視することはできません。
したがって本稿では、リクスをララシュの古代漢字名のようには扱いません。拉哈什と拉腊什は現代都市Laracheの音写であり、Lixusの訳名ではありません。
人口と位置
モロッコ高等計画委員会の2024年国勢調査は、2024年9月1日現在のCommune de Laracheの法定人口を13万3,731人、世帯数を3万5,818世帯としています。2014年の12万5,008人から増加しています。
同じ資料にはララシュ県全体の人口51万211人も載っていますが、都市一覧に県人口を置くと範囲が大きく変わります。公式サイトには、都市の自治体に当たるコミューン人口13万3,731人を採ります。
GeoNamesのLarache(ID 2543549)が示す都市座標は、北緯35.193211度、西経6.15572度です。ララシュ県を示す別ID 2543546とは区別しています。
二つの三字形を比べる
拉哈什
台湾・国立教育研究院の地名データに、Larache、モロッコ、座標とともに掲載された三字形です。標準化された地名資料の一項目として対象都市を直接照合できます。
拉腊什・拉臘什
拉腊什は中国外交部の記事に直接現れる簡体字表記です。拉臘什はその繁体字形ですが、字体を変えたこと自体を新しい史料用例とは数えません。
二字へ縮めない
今回確認した公的資料には、ララシュを示す二字形がありませんでした。都市篇は二字・三字を主流としますが、三字の既存形から一字を削ってまで二字へ揃える必要はありません。
万国漢字志への取り込み
暫定制定都市名には、三字の拉哈什を採ります。
根拠は、台湾の公的な地名データで、欧文名、所在国、座標を伴う地名訳として確認できることです。中国外交部の拉腊什も対象の明確な公式用例であり、異表記として保存します。
一方、拉哈什を日本語の歴史的都市名として使用した原典は未確認です。中国語圏の既存表記を現代日本語の都市索引へ新たに取り込むため、制定区分は創とします。この創は、拉哈什という文字列を本稿が新造したという意味ではありません。
漢字表記の命名者も確認できませんでした。地名データの編纂機関を命名者とみなしたり、古代リクスの統治者を現代都市名の命名者へ置き換えたりはしません。
採用状態は暫定です。日本語原典の用例、または中国語圏での表記選定過程を示す一次資料が見つかった場合は、制定区分と採用形を再検討します。
万国漢字志の暫定案
現代日本語都市名
ララシュ
所属国
モロッコ
台湾の公的地名データで確認した表記
拉哈什
中国外交部で確認した表記
拉腊什(繁体字形: 拉臘什)
暫定制定都市名
拉哈什――創
制定状態
暫定制定・日本語原典継続調査
採らなかった表記と未解決点
拉腊什は、中国外交部が大学と市政委員会を指して使った直接用例です。しかし今回は、地名の標準化資料でLarache、モロッコ、座標を一体で確認できる拉哈什を優先しました。優劣ではなく、暫定採用の根拠をどこに置くかの選択です。
繁体字の拉臘什は広く見られますが、今回の主要根拠である中国外交部の原文は簡体字です。出典ごとの字体と語形を混ぜないよう、採用表記にはしていません。
日本語の歴史的漢字表記、拉哈什・拉腊什の具体的な命名者、Laracheという欧文名とアラビア語名の語形変化は、いずれも未確定です。また、リクスの別名を現在のララシュの旧名として直結させることもしません。
参考資料
- 在モロッコ日本国大使館「要人往来・平成26年」
- 在モロッコ日本国大使館「我が国の対モロッコ無償資金協力案件」
- 国際協力機構『モロッコ国 水産資源管理能力強化プロジェクト 業務完了報告書』
- 国際協力機構「仏語圏アフリカ水産人材育成プロジェクト」
- 高柳伸一「ララチェの城壁の実施案が成立する経緯」『日本建築学会計画系論文集』73巻623号、2008年
- 台湾・国立教育研究院「外国地名訳名」オープンデータ
- 中華人民共和国外交部「駐モロッコ大使李昌林、ララシュ多科応用学院中国言語文化課程の開学式に出席」
- モロッコ文化省「リクス遺跡の保存・整備事業」
- ユネスコ世界遺産センター暫定一覧「Ville de Lixus」
- モロッコ政府観光局「モロッコの考古学的遺産」
- モロッコ高等計画委員会『ララシュ県2024年国勢調査・人口表』
- モロッコ高等計画委員会「2024年国勢調査・地域別、県別、市町村別法定人口」
- GeoNames「Larache」
- 外務省「モロッコ王国基礎データ」
- 国立国会図書館サーチ
- アジア歴史資料センター
- NDL Ngram Viewer
編纂綱領と公式サイト
本稿は万国漢字志 編纂綱領に基づいて調査・選定しています。
都市一覧は万国漢字志 公式サイトで公開します。
次回予告|都市篇 第十三号
次は、ケニトラです。
大西洋岸をさらに南へ進み、現代日本語名と中国語圏の二字・三字形、港湾都市としての来歴を確認します。
