「ン」は、どの字に置けるか
都市篇第三十四号は、セネガル西部の大西洋岸にある漁業都市ンブールです。
日本の外務省は、2018年の無償資金協力を伝える記事で、ンブール市とジョアール市を「漁業が盛んな」二都市として並べています。現在の日本語名では、語頭に「ン」が立ちます。
一方、中華人民共和国駐セネガル大使館は、この都市を三字で、
姆布尔
と記しています。都市を示す「市」が直後にあるため、高速道路や県だけを指す用例ではありません。
本稿では、簡体字形に加え、香港の公務員事務局通函に印刷された繁体字の姆布爾を検討します。ただし、日本語の古い資料にこの漢字形があったとみなすことはしません。中国語圏の既存用例と、日本語資料の確認状況を分けて進めます。
日本政府資料の「ンブール」
外務省は2018年、「ンブール県水産物付加価値向上のための改良型水揚場整備計画」に関する書簡交換を発表しました。そこでは事業対象を、
ンブール市及びジョアール市
と明記しています。
在セネガル日本国大使館も同じ事業を伝える記事で、ンブール県のンブール市と記しています。県と市が同じ名を持つことを、日本語の一文の中で区別できる用例です。
国際協力機構の事業事前評価表にも「ンブール市」が使われています。したがって本稿と公式サイトの現代日本語名はンブールとします。
ただし、表記は以前から完全に一定だったわけではありません。国際協力機構の2004年の報告書には、ムブール県という形があります。日本語で「ンブール」と「ムブール」の両方が使われたことを記録し、現行の政府用例に合わせて前者を主表記にします。
中国大使館と国連の「姆布尔」
中華人民共和国駐セネガル大使館は2025年12月、職業訓練の開講式が姆布尔市で行われたと報告しました。対象はセネガル国内の都市Mbourです。
同大使館の別の記事には、姆布尔―考拉克高速公路という道路名もあります。こちらだけなら起点の地域名とも読めますが、「姆布尔市」という直接用例と合わせることで都市名の漢字形を確認できます。
国連文書にも同じ形があります。気候変動枠組条約の中国語文書は、会合の開催地を塞内加尔姆布尔と記しました。国名を伴うため、別の同名地と取り違える余地が小さい用例です。
国連総会文書には、監視団の派遣先として姆布尔が現れます。包括的核実験禁止条約に関する国連中国語資料でも、観測施設の所在地MBOに対応して姆布尔が掲げられています。
複数の公的資料で三字形が繰り返され、少なくとも一つは「市」を伴います。姆布尔は記事タイトルから機械的に音を当てた案ではありません。
香港の通函にある「姆布爾」
中国大陸の公的資料にあるのは簡体字の姆布尔です。末字の「尔」は、繁体字では「爾」に対応します。
香港公務員事務局通函第7/2016号の国外出張宿泊手当表は、セネガルの欄に達喀爾と姆布爾を並べています。表の見出しは「国家/城市」であり、ここでも「姆布爾」は都市名です。
ただし、今回確認できたPDFは政府職員団体のウェブサイトに保存された写しです。文書の表紙、通函番号、発信者は公務員事務局のものですが、当初の香港政府配布URLは確認できていません。この来歴を留保したうえで、繁体字の直接用例として記録します。
そこで本稿では、日本語の都市索引に置く形を、
姆布爾
とします。
この形は、簡体字の直接用例を日本で読みやすい字体へ整理できるだけでなく、香港の通函にも都市名として直接現れます。一方、日本語の歴史表記として使われた証拠ではありません。
「姆」は日本語で一般的な地名用字ではありませんが、語頭のM音を担う中国語形を保てます。「布」「爾」も含め、三字すべてが既存の姆布尔に対応します。
日本語の歴史的漢字形は未確認
国立国会図書館デジタルコレクションでは、Mbour、M'Bour、ンブール、ムブールに加え、姆布爾、姆布尔、姆布耳、穆布爾を照合しました。今回の検索結果から、日本語本文でこの都市を示す歴史的漢字用例は確認できませんでした。
アジア歴史資料センターでも、ンブール、ムブール、Mbourと漢字候補を照合しましたが、都市名の漢字表記を確定できる外交文書は得られませんでした。
これは、日本語の漢字表記が存在しなかったと断定するものではありません。旧仏領西アフリカを扱う地理書、航路資料、水産資料には、まだ画像だけで検索できないものがあります。
現段階で確認できる日本語の旧用例はカタカナの「ムブール」です。漢字形については中国語圏の資料を根拠とし、日本語原典の調査は継続します。
小海岸の漁業都市
ンブールは、ダカールの南に続く海岸地域プティット・コート、日本語では小海岸と呼ばれる地域にあります。
セネガル漁業当局の報告書は、ンブールを漁業と観光を主要活動とする都市として説明しています。日本の外務省も、ンブール市とジョアール市の水揚施設を改修し、衛生・品質管理を高める事業を支援しました。
国際協力機構の資料には、漁民が集まるンブールの水揚場が紹介されています。ここでいう「港」は、大型貨物船を扱う商港というより、零細漁業の漁船が水産物を水揚げし、選別・加工・流通へ渡す拠点です。
また、ンブールという名は市だけでなく県にも使われます。県内にはジョアール・ファデュトゥやサリー・ポルチュダルなど別のコミューンが含まれます。県全体の漁獲量や観光施設を、そのままンブール市の数字や施設として扱わないよう注意が必要です。
19世紀の移住と1926年のコミューン化
セネガル漁業当局の報告書は、19世紀初め、シヌとカヨールの戦争を逃れた家族が、現在の県庁付近に定住したと説明しています。先住集団としてセレール人、続いてソセ人を挙げ、その後の移住によって都市が多民族化した経過も記します。
ンブールがコミューンになったのは1926年12月4日です。セネガル公共調達規制機関が公開するンブール市の監査報告書は、フランス領西アフリカ総督の決定による成立日をこの日付で示しています。
同じ漁業当局の資料は、鉱業、観光、漁業によって都市が発展したと述べます。現在のンブールを漁港だけで説明し切ることはできませんが、水揚場が市の経済と生活を形づくる重要な場所であることは、日本とセネガル双方の公的資料から確認できます。
コミューン人口は28万4189人
セネガル国家統計・人口経済分析庁が公表した2023年国勢調査の地域表では、ンブール・コミューンの人口は、男性14万6196人、女性13万7993人、合計、
28万4189人
です。
この数値を公式サイトの都市人口に採ります。ンブール県全体の人口93万5304人とは範囲が異なります。また、近隣のサリー・ポルチュダルやジョアール・ファデュトゥの人口も含めません。
国連地名専門家グループが示す都市代表点は、北緯14.42215367度、西経16.96688776度です。公式サイトでは小数第六位に丸め、北緯14.422154度、西経16.966888度を表示します。これは市域の境界ではなく、地図上で都市を指す代表座標です。
セネガルの首都はダカールです。ンブールは国の首都ではなく、ティエス州に属するンブール県の行政中心として扱います。
地名由来には二つの伝承がある
セネガル漁業当局の報告書は、Mbourという名について二つの説を伝えています。
一つは、セレール語の表現a mbouara adettに由来するという説です。報告書は「彼らは去り、立ち去った」という趣旨の意味を添えています。
もう一つは、Mbour Fayeという人物が自分の名を集落に与えたという説です。
報告書はいずれも条件付きの説明として並べ、どちらか一方を確定していません。Mbour Fayeについても、命名行為を裏づける同時代の行政記録や詳しい人物伝は今回の資料から確認できませんでした。
したがってMbour Fayeは「地名由来の一伝承に現れる人物」として記録しますが、都市名の確定した命名者にはしません。漢字形「姆布尔」を最初に選んだ人物も不明です。
二字案と三字案を比べる
姆布爾
中国大使館と国連文書の姆布尔に対応し、香港の通函にも直接現れる三字形です。都市への直接用例を保ち、Mbourの音を三つの字で追えます。
姆布
二字に収まり、見た目は簡潔です。しかし、今回確認した公的資料にMbourを姆布と略す直接用例はありません。三字形から一字を落とす根拠がないため採りません。
穆布爾
語頭を比較的見慣れた「穆」に替える案です。ただし、今回確認した都市Mbourの公的用例は「姆」で始まります。字の親しみやすさだけで資料のある字を交換しません。
都市篇では二字・三字を主流とします。この都市では、二字に縮めるより、直接用例に忠実な三字の姆布爾が適切です。
万国漢字志への取り込み
暫定制定都市名には、三字の姆布爾を採ります。
根拠は、中国大使館の「姆布尔市」、国連文書に反復する「姆布尔」、香港の通函にある「姆布爾」です。都市を指す三字の対応関係を保ちます。
制定区分は創とします。日本語の歴史的漢字表記を復元するのではなく、中国語圏の既存表記を日本語の都市索引へ新たに取り込むためです。「姆布尔」という文字列そのものを本稿が初めて作った、という意味ではありません。
万国漢字志の暫定案
現代日本語都市名
ンブール
所属国
セネガル
中国語圏で確認した都市名
姆布尔
暫定制定都市名
姆布爾――創
制定状態
暫定制定・日本語原典継続調査
採らなかった表記と未解決点
姆布は二字ですが、公的な都市名用例を確認できないため採りません。穆布爾も、資料にある「姆」を根拠なく置き換えるため採りません。
未解決点は、日本語資料における歴史的漢字表記、香港公務員事務局通函の当初の政府配布URL、中国語形「姆布尔」を最初に選んだ人物、Mbourという地名の二つの由来説の確定です。
また、Mbour Fayeという人物が実在した時期と役割、集落名との関係も確定できていません。新しい原典が見つかるまでは、一つの伝承を史実として固定しません。
参考資料
- 外務省「セネガルの水産業振興のための無償資金協力」2018年
- 外務省「セネガル共和国基礎データ」
- 在セネガル日本国大使館「ンブール県水産物付加価値向上のための改良型水揚場整備計画」
- 国際協力機構「ンブール県水産物付加価値向上のための改良型水揚場整備計画 事業事前評価表」
- 国際協力機構『セネガル共和国零細漁業振興計画基本設計調査報告書』2004年
- 中華人民共和国駐セネガル共和国大使館「中広核セネガル『白鷺工坊』人材研修開講」2025年
- 国連気候変動枠組条約文書 FCCC/KP/CMP/2011/L.5 中国語版
- 国連総会文書 A/80/286 中国語版
- 国連『包括的核実験禁止条約』中国語版
- 香港公務員事務局通函第7/2016号の保存写し「国外出張宿泊手当」
- セネガル国家統計・人口経済分析庁『ティエス地域社会経済報告 2022–2023』
- 国連地名専門家グループ「Mbour」都市記録
- セネガル漁業当局『セネガル沿岸漁業地域調査』
- セネガル公共調達規制機関『ンブール・コミューン2023年調達監査報告』
- セネガル共和国政令第2021-689号「州・県・郡の区域と行政中心を定める政令」
- 国際協力機構「西アフリカ地域漁業資源共同管理能力強化プロジェクト」
編纂綱領と公式サイト
本稿は万国漢字志 編纂綱領に基づいて調査・選定しています。
都市一覧は万国漢字志 公式サイトで公開します。
次回予告|都市篇 第三十五号
次は、ジョアールです。
ンブールから海岸を南へ進み、日本政府資料でも同じ漁業都市として並ぶ町の漢字表記を調べます。
